司祭年の閉年にあたり
高木健次神父
私の助祭叙階式の時に、幸田司教様が説教で次のようなことを言われたことを覚えています。
「高木さん。あなたはこれからミサの中で司祭を助けたり、福音を朗読したりするでしょう。しかし、それをするためにあなたは助祭になるのではありません。むしろあなたは日々の生活で人々に奉仕するから、ミサの中で司祭を助けるのです。日々の生活で福音を告げるから、ミサの中で福音を朗読するのです。」
叙階された者(司祭や助祭)がミサの中ではたす役割は、彼らがどのような存在であるのかを表す、その日の働きの象徴であるということなのです。
ここからさらに広げて、司祭・助祭という存在そのものが、キリストの教会全体、すべてのキリスト者がどのような者であるかを体現する象徴的なものであるということができるでしょう。
司祭年の間、千葉寺教会ではミサの中で「司祭たちのための祈り」を祈ってきました。この祈りは直接には、叙階された司祭のためのものですが、司祭がキリスト者全体を象徴していると考えるならば、祈りの中の「司祭」という言葉はすべて「キリスト者」や「神の民」に置き換えることができると思うのです。
なるほど祈りの前半の「あなたに選ばれた」、「忠実で熱心な」、「生ぬるく不忠実な」、「宣教地ではたらく」、「誘惑で苦しんでいる」、「孤独と寂しさで苦しんでいる」、「若い」、「年老いた」、「病気になった」、「臨終の床にある」に続く「司祭」という言葉は「キリスト者」などに置き換えることができるかもしれませんが、後半の司祭固有の役割に関する部分については、置き換えは無理があるのではないかと思われるかもしれません。しかし、司祭の役割は神の民、教会全体の使命と切り離されてはありえないのです。
キリスト自身が洗礼の時に父なる神から「あなたは私の愛する子。私の心にかなう者」という言葉を受けたと聖書は伝えています。キリスト者は、キリストにむけられたのと同じ「あなたは私の愛する子。私の心にかなう者」という神の思いを人々に伝えるようにまねかれた存在です。このキリスト者の役割を、司祭は典礼の中で洗礼を授けるということによって、目に見えるかたちで表しているといえるでしょう。
また、キリスト者が人々の不完全さを受け入れ共に歩む存在であるからこそ、司祭が秘跡の中でゆるしを宣言するといえるでしょう。
人が生きていくのに不可欠ないろいろなもの、具体的な生活の支援から愛情にいたるまで、キリスト者はそれらを人々に渡していく存在であるからこそ、司祭がミサの中で聖体を授けるといえるでしょう。 そして、キリスト者が神様から預かっている大切なことを人々にむけて語る存在であるからこそ、司祭も教え、助言を与えます。
このように司祭職は、キリスト者全体の本質を象徴しているともいえるわけですが、実はキリスト者自体が、人類全体の中で司祭の役割を持っているとされています。神学の用語では、これは「キリスト者の共通祭司職」と言われます(なぜか、司祭が逆になって祭司になっていますが)。そもそもキリスト者全体が、人類とは本来このようなものであるということを体現する存在なのだといえるでしょう。そこで、祈りの最後の「私たちが感謝しなければならない全ての司祭」とは「すべてのキリスト者」に置き換えられるし、さらに「すべての人」にまで、その意味は広がっていくことでしょう。
一年間の司祭年を過ごしてきた今、キリスト者として、それぞれの場で何をすることを神様が望んでいらっしゃるかを、あらためて考えてみると同時に、日々のつながりの中で私たちがお世話になっているあらゆる人に感謝しようではありませんか。
「シャローム」2010年06月号掲載