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キリストの前で何もしない時間

高木健次神父


 私にいろいろなことを教えてくれた司祭の一人である今野神父様は、長いこと桧原村にあるカトリックの座禅道場「秋川神瞑窟」に住んでいました。この秋川神瞑窟を作ったのはドイツ人のイエズス会司祭のラッサール神父様(日本に帰化して愛宮真備という名前になりました)です。ラッサール師は、日本の禅の伝統から学ぼうとしたカトリック世界の先駆け的な人物だということです。

高木神父様

 若き日の今野師がある時ラッサール師に、どうして禅がいいのかと尋ねたそうです。するとラッサール師は、何もしないのがいい、と答えたそうです。人間が何かするとそこに必ず間違いがはいるからということでした。


 確かに聖書もこの現実を語っているでしょう。神様だけが働いている創世記一章の天地創造の場面には、「見よ、それはきわめてよかった」という言葉が繰り返され、神様の働きの完全さが表されています。それが、人間が何かし始めるところからこの世界がだんだんおかしくなっていくわけです。


 しかし、私たちは実際に生きているし、何もしないわけにはいきません。また何より神様ご自身が、たとえ間違いが入り込もうとも全てを人間とともに行うことを決意されたとキリスト者は信じています。だから、私たちが能動的に何かするということは、たとえ間違いが入ってしまうとしても、それ自体は悪いことではなく、むしろそのように招かれているとさえ言えるでしょう。ただ時々、一緒にやろうよ、と招いてくれた当の神様を忘れて、自分だけで何かをやっているような、あるいはやらなければならないような気になって、うまくいかない、うまくいかないと苦しむというこが起こってしまいます。


 そこで、いろいろなことをし続けている毎日の中にあって、何もしない時を持つということが大切になってくるのではないでしょうか。私たちが何もしない時、その時には、きっと神様だけが働いてくれています。聖書の中にも、神様が大切なことをしようとする時に、人を深い眠りに落としたり、口がきけないようにだまらせたりする場面が出てきます。何もしない時とは、神様の働きに身を任せる時、神様の働きを自分の上に取り戻す時との意味を持っていると思います。


 このような意味での何もしない時を過ごすのに、聖体顕示の時間は非常にふさわしいのではないかと思います。ご聖体のキリストを前にして、自分の側の一切の働きをやめる。体の動きだけではなく、頭も心も。キリストの光が私たちの心を照らし、その傷をいやし、ゆがみやねじれをほぐしてくれることに任せて、ただそこにいるという時間をすごすわけです。イメージとしては布団を干すような感じでしょうか。干されている布団が何かをしなければならないということはないわけで、ただ日向に出しておけば、殺菌もされて、ふかふかにもなりますね。そのように私たちの魂も時々日向に干した方が、本来の善さをとりもどせるのではないでしょうか。そして、ご聖体のキリストの前は、魂にとっての日向なのだと思えるのです。


(キリストの聖体の主日に、ミサの前に聖体顕示をしましたが、その時間をどうすごしたらよいかわからないという声があったということで、聖体顕示の間の過ごし方の一つの提案としてこの原稿を書きました。もちろん、神様の前での過ごし方はそれぞれ自由なはずですから、これでなければならないということではありません。ただ、聖体顕示の時間は聖堂全体で、沈黙の雰囲気を大切にしたほうがよいとは思います。)


「シャローム」2010年08月号掲載

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