復活祭とゆりの花
マルコ・アントニオ・マルティネス神父
カトリック教会の典礼はすばらしいと思います。特に四旬節と聖週間の典礼によって、私たちは一歩づつキリストの復活へと導かれます。こうして毎年、教会の典礼によって、キリストの十字架とその復活を新たに味わうことが出来ます。
人間は、同じ事を何度も繰り返すと、すぐに慣れてしまいます。信徒の中にも、教会で行われる毎年の典礼を、同じ事の繰りかえしと思っている方がいるかも知れません。典礼の外面的なことだけを気にして、典礼の神秘を味わうことができないでいます。
日本のカトリック教会にとって、今年の四旬節と聖週間は、特別な意味をもっています。3月11日の地震と大津波、そしてこれに伴う原子力発電所の事故により、多くの兄弟姉妹の心は孤独と寂しさ、将来への不安でいっぱいのはずです。このことを考えれば、典礼を通して生きておられるキリストの十字架と復活は、昔の出来事ではなく、今のことだとわかります。
聖金曜日、主の受難の朗読の後で、典礼に参加した信者さんたちに、キリストの受難は、今、この日本の空の下にあります、という話をしました。大震災による被害で苦しんでいる人々の心の中に、イエスさまの最後の七つのことばは活きているのです。特にキリストが人間として御父に叫んだ「主よ、どうして私を見捨てられるのですか」は、今の震災に遭われた人々の叫びなのです。聖金曜日の典礼が終わると、祭壇からすべての飾りが取り除かれ、聖堂内は寂しい雰囲気に包まれ、信者たちも静かに退室して行きました。すべてが主の復活をまっています。
30年前、私は6年間、福島県の須賀川教会の主任司祭を勤めました。その教会の古い建物は、今度の地震で倒壊寸前となり、被災した信徒たちは教会に避難することができず、白河や郡山の教会へ避難し、そこで典礼に与かりました。教会まで行けない人たちは、被害の軽かった信者さんの家に集まって、聖週間の務めを果たしました。今年の聖週間は、特に東日本で苦しんでいる兄弟姉妹にとって、忘れることの出来ないものとなりました。
自然災害、原発を含めた人的災害、また戦争やテロのために苦しんでいる人々はたくさんいます。主キリストはこの人たちと一緒に苦しんでおられます。いま私たちは、東北の兄弟姉妹の苦しみや悲しみを忘れることができません。でも主キリストが共に苦しんでくださることを、聖週間の典礼を通して感じ取ることができました。苦しみを通して復活の喜びへと導かれるのです。
聖土曜日の徹夜ミサと、日曜日の復活祭のミサの後で、何人もの信者さんから話しかけられました。「今年の祭壇の飾りはとてもシンプルで意味があるように思われます。ただ一輪のゆりの花しかないことで、典礼の復活の喜びが何よりも大切だと解りました。」と。
先月と同じ祈りをかかげます。特に「私たちもその人たちのために犠牲をささげ……」を深く味わってください。どんな小さなことでも良いのです、被災された兄弟姉妹のために神さまにささげてください。
「シャローム」2011年05月号掲載