聖書と教会教導職
マルコ・アントニオ・マルティネス神父
カトリック教会の土台は二本の台柱の上に置かれています。ひとつは聖書、もうひとつは教会の教導職(magisuterium)です。
聖書
使徒パウロは自分の弟子テモテに次のように言っています。 「(あなたはまた)幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。(テモテへの第二の手紙(口語訳) 3:15-16)」 旧約聖書から新約聖書まで、神の救いの計画が啓示されています。その啓示は、まず預言者たちによってなされ、最後に主イエス・キリストによって私たちに語られました。 「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた。(ヘブル人への手紙(口語訳) 1:1-4)」 ですから、キリスト信者である私たちにとって、聖書は神のみことばの大切な本です。それを個人で読んで、祈って、黙想することによって、神さまからのメッセージを受取ることができるのです。 |
教会はこの世を旅している聖霊に充たされた共同体です。
それでも、私たちは人間ですから、ときには正しい道を反れて迷ってしまう危険があるのです。イエスさまはご自分で「私は道であり、真理であり、生命である」とおっしゃっています。
聖書は私たちの足の灯火です。教会の典礼にはそれぞれA年、B年、C年の三つの年があります。そして日曜日のミサに三つの聖書朗読があります。即ち三年間続けて日曜日のミサにあずかると、救いの歴史のポイントを学ぶことになります。
でもそれでキリスト信者として聖書のすべてを学んだことにはなりません。個人でもグループでもどうか聖書を読んでください。この千葉寺教会には「聖書100週間」の二つのグループがあります。そのグループに入るとゆっくり聖書を読むことができるし、そのメンバー同士で分ち合うこともできます。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。(エペソ人への手紙(口語訳) 1:17-19)」
教会の教導職 |
教会のもう一つの柱は、イエスさまの弟子たちの時代から今の私たちの時代まで伝承されてきた、教会の教えです。
聖書は変わることがありません。そして教会の教えも聖書に基づいているから変わりません。
火曜日の勉強会(朝と夜の2回)は、今年の復活祭以降「カトリック教会のカテキズム 要約」を読むことから始めました。確かに使われていることばは簡単ではありません。神学的な専門用語で一般信徒はそれに慣れていません。でも勉強会では皆でそれをゆっくり読んで、それぞれのことばの意味を分ち合うなかで理解を深めていきます。
この「カトリック教会のカテキズム 要約」は、598のQ&A(問いと答え)の形式で書かれています。火曜日の勉強会は「週日のミサ」の聖書のほかに、この「カテキズム」から三つから四つほどのQ&Aに取り組みます。とてもゆっくりです。
私たちは主日のミサの信仰宣言で「――聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます」と宣言します。この「カテキズム」の勉強によって、どんなに時間がかかっても、私たちが宣言している信仰を理解することができるようにと祈っています。
是非、皆さん家庭でも家庭集会でもこの「カテキズム」を読んで分ち合ってください。そして何か疑問が生じたら、いつでも質問にきてください。お待ちしています。
神に感謝
「シャローム」2011年07月号掲載